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捨てるものと捨てれぬもの [日本人論]

この東京で明るく楽しく幸せに暮らせる人は、

容易に過去を切り捨てられる度量を持った人だ。

 

破壊と創造-

守るものを持たぬものは強い。

なんでも新しく作りかえられる。

 

しかし俺は信じたい。

守るものを持つものが、

真の強さを持つのだと。

 

アメリカは世界覇者のように振舞うが、

結局欧州諸国にはかなわないだろう。

 

夢に普遍の価値観などない。

過去を持たずに未来だけを持っている人間などいない。

過去と繋がってこその未来。

これまでやってきたことと繋がってこその夢なのだ。

 

時は流れるのではない。

それは積み重なるのだ。

(by サントリー)


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The First Anniversary [日本人論]

帰国してちょうど一年。

未だ、ウラシマ状態から抜け切れぬ。

いや、もしかすると意識して抜けないようにしてきたのかも。

 

東京は変化の激しい街だ。

俺が日本を離れた2000年は、道行く女性はほとんど茶髪だった。

今はなんとほとんど黒髪だ。

ロック好きなのでコンサートによく足を運んでその辺の若人と話すが、

たまに使ってる言葉がよくわからない。(外人と思ってSorryと言ってしまったくらい)

身長も明らかに違う。日本人は確実に背が高くなっている。

でもこれらは楽しめる変化。

 

かつてよく訪れた店はほとんどなく、再開発の嵐で近代的な無機質なビルだらけ。

綺麗だが感動がない。

「へぇ~、こんなのできたんだ~」ではなく、

「ここもこうなったのか。。。」と、ただただ寂しさを感じる。

 

周りの仕事の仕方も変わった。

スピードが重視され、ろくに検討もしないでただ実績が求められる。

アピールが上手い者は昇進し、こつこつと地道に活躍する人は、

年とって気付けばなぜか「例外なく」閉職に追いやられている。

しかし、会社に実質的な貢献をい果たしたのは、

間違いなく、必要なことをこつこつやり抜いた先輩達なのだ。

 

俺が影響を受け、尊敬した先輩方は、

正しいと思うことを信念を持って貫く人たちだった。

たとえその人が失敗しても、一番大切な信念を貫く心意気は部下に伝わっていた。

今は失敗することが全てにおいて命取り。失敗は他人のせいにすることがあたりまえだ。

部下のおかげで自分が評価されていると気付かぬ者たち。

今や自分が一番かわいく、自分を守りきるので精一杯な人たちだらけ。

そしてそういう人たちをみて、下も無意識のうちにそう育っていく。

かくして日本の会社としてのモラルは廃退してゆくのか。

 これらは残念ながら楽しめない変化。

 

俺は、見た目も聞く言葉も雰囲気を感じる匂いも、かつて慣れ親しんだはずの

東京とは異なる別の街にやってきた感覚なのだ。

俺の知っている「東京」に限りなく似た、「TOKYO」という似て非なる街。

 

帰国して一年。俺は納得した。

東京は日本ではないのだと。

俺は日本の東京に似た、別の国の街に赴任してきたのだと。

日本人「風」の人たちが溢れ帰るTOKYO。

かつて愛しんだものは全て消えた。

過去を否定することで新たな価値をつくりあげるこの街は、

過去を大切にしながら成長する欧州諸国に感化された俺にとって、

間違いなく、永住するに値する街ではない。 


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「日本人風」な俺たち [日本人論]

 先日始めて沖縄を訪れた。(旅行記としては後ほどupします) リゾート遊びを封印して戦争爪跡巡りという、広島に続き重いテーマで臨んだ旅だった。そして思った。

今の俺らは果たして「日本人」といえるのか。

もしかすると、やはり「日本人」というのは先の大戦で滅ぼされてしまったのかも知れない、と。

 

 2007年になってからのある日、靖国神社へ行ってきた。現在の日本の繁栄の礎となったご先祖様に、今を生きる日本人の一人として感謝の意を表すためである。それ以上でもそれ以下でもない。(右翼でも左翼でもない) 中には例外もあったかもしれないが、あの大戦で死地に赴いたご先祖様方のほとんどは、妻や恋人子供、家族、友人、村の人々などの身近な人々のため、更には顔を見たことも話をしたことすらない同胞の「日本人」全員のためにその命をなげうった。「日本人」を守るために。

我らは果たして彼らが守ろうとした「日本人」たりえているのか。

今生きている我々は本当に「日本人」といえるのか。

俺たちは何者か。 

 上海では急速な経済発展により、標準語(北京語)を話す人が急増し、上海語を話す人が急減しているという。確かにどちらかといえば明らかに北京語を話せた方が将来必ず「役に立つ」。しかしそれでいいのだろうか。言葉は文化の象徴である。言葉が滅びることはその文化を培ってきた民族が死ぬことを意味する。お隣の中国伝統の重さを再認識し、これから幼稚園などで上海語の教育に力を入れるそうだ。「役に立つ」ことばかりを教えるのが教育ではなかろう。遠い昔、日本は文化を中国から輸入したが、小学生から英語を教育しようとするこの国は、いまも中国から学ぶことがあるのかもしれない。

 今年、六本木に「和のテイスト」をふんだんに盛り込んだ新たな名所、東京ミッドタウンが誕生した。日本料理に「フレンチテイスト」、「イタリアンテイスト」を加えたお店や、その逆にフランス料理に「和風」な味付けを施してあるお店は東京には数多く存在する。しかしフランスで「ふれんち・テイスト」なお店だと宣伝する店があるのだろうか。イタリアに「いたりあん・テイスト」な店はあるのだろうか。果たして「日本」において「和のテイスト」とは何を意味するのか?

 相変わらず格闘技が人気である。「日本はサムライの国」、「日本の誇る武士道」、などとマスコミが煽る。しかし日本人はみんながみんな武士だったわけじゃない。武士は日本の総人口の7%程度だったし大多数の84%は農民である。「日本は農民の国」と言った方が正しいのだ。格闘家はサムライではなく、マスコミによって「サムライ風」に仕立て上げられているのだ。

自国の文化すら「~風」「~テイスト」といって「ファッション」と化してしまう今の日本。

俺たちは残念ながらすでに日本人ではなく、「日本人風」なだけかもしれない。

 


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広島ちょい旅行 vol.10 [その後] [日本人論]

平和は大切だ。これに異を唱える人はいないだろう。では平和とは何か。

  • 平和とは、与えられるものではなく、戦って勝ち取るべきものなのか、
  • 平和とは、平和を愛する民には無条件で与えられるべきものなのか、

人類の歴史は前者であることを証明している。かつての日本の大多数の考え方も前者であったが、今の日本の大多数の考え方は後者だろう。前者のための手段は、(当初は「議論」だったが)残念ながら最終的には「戦争」であったわけだが、後者のための手段は?あえていうなら「お金」か。結果として前者は多くの命を失ってしまったが、後者は多くの心を失ったのではないだろうか。

  • 命を失うくらいなら、心などいらぬと思いますか。
  • 命を失ってでも、心を守りたいと思いますか。

最終的に、命をとるのか、心をとるのか。俺は前者は母性、後者は父性と思っている。長く武士が統治する時代が続いた日本は、社会のあり方が父性の象徴だった。切腹などという美学は、まさに「命捨てて心守る」ことだろう。しかしその一方、大奥のように母性もしっかり社会に根ざしていた。昭和になって軍が政治を指揮するようになると、社会から母性が完全に失われた。そして今、社会から父性が少しずつ失われようとしている。平和は社会を女性化してゆく。今の日本は女性が主役だ。企業は女性がウケるものを作り、ホテルは女性専用フロアを設け、電車には女性専用車両ができる。女性化した社会は間違いなく弱くなってゆく。俺が帰国してまず感じたのは、気持ち悪いほどの「ぬるさ」であった。

 最近、プライバシーの情報流出が相次いでいる。俺はこういうニュースを聞くと、昔から変わらぬ「情報管理」というものに対する「ぬるさ」を感じてしまう。例えばまんまとルーズベルトの戦略に乗ってしまった真珠湾攻撃(ルーズベルトは戦争しないことを公約に大統領になっているため、日本を公に叩くには、世論を動かすため日本に自国に理不尽な被害を及ぼさせる必要があった。日本の真珠湾攻撃が事前に盗聴されてルーズベルトの耳に入っていたのは現在では明らかになっている。)にしても、負けるはずのないミッドウェー海戦の大敗(10分の1の数の艦隊にボロ負けした。最大の敗因は事前に盗聴され、暗号を解読されて攻撃地点と艦隊の場所を特定されたこと)もそうだが、日本はアメリカの圧倒的兵力以前にまず、情報戦で負けていたのだ。

現在はインターネットが普及し、まさに情報の洪水状態だ。至るところに様々な情報が飛び交っている現代だからこそ、情報を正確にしかも早く取ることに国はもっと力を入れるべきだ。各国が秘密諜報機関を持っているのに、日本には他の国と同等の軍隊も持てないうえに諜報機関すらない。これでは有事の際に自分の領土を守ることもできず、戦略を正しく作るための情報も仕入れることができない。

 

この「過ち」という言葉が「人類全体の過ち」を指しているならば、原爆を炸裂させたことを言っていることは明らかだ。それは米国の過ちともいえる。すでに虫の息状態だった日本に、いかなる理由があろうともこのような惨いことをする必要があるはずはなく、原爆投下の行為そのものは間違いなく「人類の過ち」だ。そしてその過ちは一切償われていない。

この「過ち」という言葉が「日本の過ち」を指しているならば、それは「戦争をしたこと」を指すのではなく、原爆を防げなかった原因を指すべきだ。俺はその原因は情報戦に負けていたことだと思っている。インターネット社会になった今こそ、情報戦はこれまでより意味を持つ。しかし、日本は今でも、情報戦に敗れ続けている。これこそ「同じ過ちを繰り返している」ということではないのか。

広島(と長崎)は日本代表である。ヒロシマは日本を代表して標的にされ、犠牲になった方々は、日本を代表して犠牲になったのだ。もっというと、世界唯一の被爆国としては人類を、生物を代表して犠牲になったのだ。ヒロシマからの声は日本の声であり、人類の声、生物の声である。全ての日本人、人類にこの声が届くことを願ってやまない。こればっかりは、「過ぎたことは水に流す」という日本人の美徳に流されてはならないだろう。

広島は日本を見つめなおす機会を与えてくれる。日本を離れていた頃から訪れたかった広島をやっと訪れることができた。次は沖縄だ。


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「産む機械」発言 [日本人論]

あきれてものがいえない。。。

 この発言に抗議している人たちこそ、少子化問題を先送りしようとしている人たちである。

 日本語は表現が多彩であるため、言葉のあげあしを取られやすい。柳沢厚労相がこの発言をしたときの映像を見てみるとよい。きっと世の中の女性はほとんど気にもならないことだろう。それほど些細な表現である。単なる比喩である。もちろん発言そのものは不謹慎であるが、発言したときの状況を鑑みるとこの発言は異常に執着する類のものでないことは、容易に理解できる。今騒いでいる人達に、一体どれだけこの発言をした実際の場面を見た人がいるというのか。「柳沢厚労相は女性を『産む機械』に例えた」というマスコミの煽りをそのまま受け入れている人だらけではないのか。日本語は前後の文脈で大いに表現が異なるものである。たった一つの発言を切り取り、真意を推察することなどできない。その日本語法則を無視し、言葉尻だけを捉えて無用な議論を展開するマスコミと野党。無益な議論より、本当に少子化問題をどうするか、真剣に議論してほしいものだ。これは女性の世論を見方につけるべく野党が目をつけた政治戦術である。いかなるスキでも突くのは政治家としては正しい戦術なので、こういう攻撃材料を与える柳沢厚労相に一番の責任があるのはいうまでもない。(発言が命の政治家が、どうしてこういう例えを使うのか、甚だ疑問である。) 彼の罪はどちらかというと発言そのものというより、不注意な発言によって重要案件の議論の進展を止めたことにあるのではないか。

 予断であるが、私がオランダにいる時、イラク派兵が決まり、国会が騒然としたことがあった。女性議員が壇上に乗りあがり、コブシを振り上げている写真が出回った。オランダのニュースでも日本の騒然とした国会が繰り返し映し出されていた。友人のオランダ人は言った。「日本の政治家ってのはいつもこんな野蛮な決め方をするのかい?」 彼は明らかに蔑視していた。低俗な汚いものを見る目だった。俺は「いつもじゃない。今回だけは特別。日本にとって大きな判断だから。」としか言い返せず、ただ恥ずかしかった。その映像は、確かに低俗で汚く、恥そのものだったからだ。


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あるある大辞典Ⅱ。。。 [日本人論]

 私はほぼ毎日納豆を食べているのだが、ある日近所のスーパーから納豆が消えた。ご存知の通り、テレビ番組で「ダイエットに利く」と取り上げられたために納豆を買う消費者が激増したためだ。

 1973年、オイルショックによって、なぜか原油価格と直接関係のない「紙」がなくなる、という報道がなされ、トイレットペーパーを買う消費者がスーパーに群がり、未曾有の品不足に見舞われた。

 なーんも変わってない。

 7年ぶりに帰国して、様変わりした街並みに驚いたものだが、オイルショックから30年余り、街並みやファッションという外見は変わっても、民族性はそうそう変わらない。学校でオイルショック時の社会現象を大笑いした人にも、今回納豆を買いに走っていた人もいたことだろう。

 俺は今回、「だまされた」と抗議している人たちを見て、ちょいと違和感を持った。マスコミの情報が100%正しいというのはそもそも間違いである。マスコミは有用な情報も無用な情報も(機会という意味では)平等に与えてくれる。それが正しいと信じた以上、それは自分の責任である。「情報にだまされた」というより、「情報を信じた」自分の責任ともいえるのではないだろうか。

 最近ネットで情報は簡単に手に入る。しかしネットこそウソの情報だらけなので、どの情報が正しく有用か、どの情報が間違っていて不要か、判断するのは他でもない自分ということだ。自分の信じた情報が間違っていた場合、その情報の提供者に「だまされた」と抗議するのではなく、それを信じた自分の責任をまず最初に認めるべきである。

 マスコミに踊らされる国民がいるから、マスコミは国民をなめた番組を作る(こともたまにありえる)のではないか。


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安倍晋三総理の講演 at ゆうぽうと簡易保険ホール [16-Jan'07] [日本人論]

 このブログでは珍しい政治ネタです。

 1月16日、安倍総理の講演を聞きに行った。俺は別に自民党支持というわけではないのだが、安倍さんの「美しい国へ」という本を読み、安倍さんの日本と言う国に対する姿勢には大いに共感できたので足を運ぶことにしたのだ。

(今デジカメ修理に出していて、携帯で撮るとこんな写真になってしまった

 最初に書いておくが、ホントにしゃべりは得意ではなさそうだった。しかし原稿を読むことなく自らの言葉で語りかけるその姿勢は素晴らしいと思った。講演内容を抜粋し、それぞれについて思ったことを書いた。まず安倍政権の国際外交政策の重点ポイント

1.自由、基本的人権の尊重等の基本的価値を有している国々との連携

  具体的にはEUやNATOなどとの連携を指す。今年のサミットドイツだが、2008年は日本で開催予定。価値観を共有できる国々との連携が大事とのこと。これについては俺的に異論はない。

2.オープンでイノベーションに富むアジア

  この政策の象徴となるのが安倍総理が唱えた「アジアゲートウェイ構想」。日本がアジアと世界との架け橋になる、というこの構想は、英国のブレア首相が若くして就任した時に言ったことと似ている。英国がアメリカと欧州の架け橋になる、というものだ(ったと思う)。しかしブレアのこの構想は今現在成功したとはいえない。イラク戦争にしても英米対独仏という構図を生んでしまった。英国よりもずっと厳しい今の日本のおかれたアジア環境では、架け橋という構想はなかなか難しい。何を言っているかというと、アジアで力を持っているのは日・中・韓であり、その中では日本はリーダーシップをとり難い状況にされているからだ。具体的は方策としては省エネ技術を活かしたエネルギー安全保障やEPAの推進が鍵になると説明していた。確かに現実的にはそうだと思う。特にEPAの拡大は、成長し続けるには絶対必要なことだ。もちろんそれらは技術の流出及び国内産業の衰退という諸刃の剣でもある。技術提供は更なる技術革新があってこそ将来的に意味を持ってくるだろう。

3.世界の平和と繁栄のために積極的に貢献

  防衛庁の省への昇格は、日本がcivilian controlに自信をつけた証。これをもって更に世界平和への貢献がなされることになり、フィリピンのアドベ大統領からも大変歓迎された、と力説した。世界平和への貢献は必要だと思うが、俺が疑問に思ったのは「civilian controlに自信をつけた証」という表現だ。確かに省への昇格は必要なことだったと思うが本当に防衛省はその証か?私見を述べさせてもらえば全てはこれからである。1991年の湾岸戦争で日本が恥さらしになったことを考えても、世界平和への貢献はもちろん大事だ。しかしそれよりも前に元々の自衛隊の存在理由である、自国の平和貢献が適切にできるような足固めを行わなければならない。

 次に国内政策に言及した。

 わかり易い社会保障制度が重要とのこと。それはホントにそう思う。年金制度にしても仕組みが複雑すぎて、(俺も含めて)ほとんどの国民が理解できてない状態と聞く。ましては利用者は高齢者だ。わかり易い仕組みづくりは急務だろう。

 安倍さんは教育改革を最重要課題として掲げていると言った。それは大いに賛同する。教育の目的は何か。教育とは何のために必要なのか。学力をつけることか?文化を学ぶことか?それらは結果として身につくものにすぎない。

 教育の本来の目的とは、志ある国民を育て、品格ある国家を作ることだ。

 この3月、卒業証書を手にする者達は「志ある国民」であることを、卒業証書を手渡す方々、そしてそれを見守る親御さん達は「品格ある国家」を作るための教育をしてきたことを願ってやまない。

 最後に今年は景気回復が家庭へ浸透する年にしたい、と語った。そのために成長戦略が大事だと。成長しなければ底上げもないのだと。

 日本は「美しい国」となることができるのか。自分は自分のレベルの地道な範囲で「美しい国」への貢献をしていきたい。

 


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紅白 [日本人論]

2006年(平成18年)の紅白歌合戦。予想通り視聴率は思わしくなかった。みのもんたが出演した一昨年の紅白は近年に無く面白かった(実際視聴率も上がった)と思ったが、昨年はちょいと息切れしたような失速感を感じた。そんな中でも一番の話題を振りまいたのは、NHK初のヌードパフォーマンスを披露した DJ-OZMAだろう。地デジで見るとボディスーツというのははっきりとわかるが、アナログテレビで見てると確かにわかりにくいのだ。(俺はアナログテレビで見ていてびっくりした) 俺は過激路線は基本的にwelcomeだが、今回のあれは正直いただけなかった。紅白歌合戦はレギュラー番組としては(最近は低迷しているとはいっても)年間最高視聴率を誇る世界的に有名な日本の国民的番組である。心無き男性の金にモノをいわせたアジアの売春ツアーや、心無き女性のイエロータクシー(乗車拒否なし)と揶揄される尻軽状況など、性的にルーズな国民というイメージが多い中で、「圧倒的視聴率」を誇る「国営放送」の最強番組が、あのパフォーマンスを全世界に向けて放送するということに対する負の影響をもっと認識しなければならないだろう。まさに「恥を知れ!」である。本当に日本は哀れなほどに平和な国である。

 


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8月15日 [日本人論]

61回目の終戦記念日である。

毎年せめてこの日だけは今の生活を営むことができることに素直に感謝したい。私は今、英国人含む数々のnationalityの人達と一緒に働いているが、61年前に焼け野原で玉音放送を聴いていた人々は、このような未来が存在することなど、想像のかけらすらなかったであろう。戦後死に物狂いで日本経済を立て直した我らが父の世代にも改めて感謝したい。そしてあの戦争の意味について考えたいと思う。

歴史は全く同じことは繰り返さない。しかし人は似たことを繰り返す。

あの戦争はどうして起こったのか。認識しなければならないのは「これが原因で戦争が始まった」などというように単純に特定できないことである。本当に様々な要因、数多くの人々の意思が複雑に絡み合ってあの戦争は始まったことだけは理解しておかなければならないだろう。その内の一要素が「もしも」他の様々な要素と絡み合わなければ、確かに戦争は防げたかもしれない。しかしあの時代あの状況を鑑みれば、私見であるが、あの戦争の発生は不可避だったと思わざるをえない。超大局的見地から見れば、戦争が起こった背景は大きく分けて以下にあげられたものになるだろう。ここから様々な直接的要因が生じたと思われる。

  • 世界恐慌や昭和恐慌の原因となった、米国の異常気象や関東大震災といった自然災害
  • 日本との協力姿勢から一転反日となる原因となった、アメリカ中国進出願望
  • 世界恐慌で大打撃を被る原因となった、資本主義国家群のアメリカ経済頼みの経済構造
  • ブロック経済を進める要因となった、米・英・仏等が持つ経済協力機構の存在
  • 日本は乏しい資源により輸出依存型経済であり、経済協力機構を持ってなかったこと

これらの経済的要因に加え、欧米の白人至上主義意識や日本の盲目的な軍国主義(反対勢力は常に存在したにも関わらず、不況打破を望む世論の後押しもあって軍が台頭してきたという意味)、人間の意識的要因も絡み合っている。後者の白人至上主義や日本の軍国主義などは今存在しない(白人至上主義は未だ一部で残っていることは事実だが)といえるが、問題なのは前者の上にあげた経済的要因は今もその根本的状況が何ら変わっていないことにある。

長い不況は強いリーダーを求める。かつての独・伊もそうだ。日本の場合、ファシズムではなかったが軍が台頭した。それらが台頭することになった最大の根本的要因は、米国発端の世界恐慌であったことは否定できない。恐慌がブロック経済を生み、植民地を持たぬ資本主義国(日・独・伊)はますます窮地に立たされ、不況が長引いたからである。

平成不況は先の総選挙の結果、小泉純一郎首相という強力な指導者を作りあげた。これも長い不況のために国民が強いリーダーを求めた結果であるともいえるのではないだろうか。

歴史は全く同じことは繰り返さない。しかし人は似たことを繰り返す。

大規模戦争は起こらないかもしれないが、それに匹敵する何かが起こるかもしれないことは否定できない。人は歴史から多くのことを学べる。過去を振り返るより未来を見つめて、と言われてきたが、実は未来は過去にこそあるのかもしれない。

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小泉首相が靖国神社を参拝した。それには賛否両論あるだろう。それぞれの戦争に対する捉え方が異なるのだからそれも仕方あるまい。個人の心情が絡むが故に非常に複雑な問題だ。大いに議論はするべきだろうが単純に考えるべきではない。なぜならこれは文化の衝突ともいえるからだ。

人が死んだら神様として祭り、生前の所業に関係なく尊ぶ精神は世界的に見ておそらく日本固有のものではないだろうか。罪を憎んで人を憎まず。日本人にとって死者は神様であり、仏様である。中国・韓国においては悪人は死んでも悪人であり、犯罪者は死んでもその罪は消えないというのは、中国・韓国両方の歴史を見ていると理解できる。日本人が「何で60年も前のことを今更うだうだ言うねん!」と怒ってみたところで、これは「過去のことは水に流す」という日本文化に立脚した意見でしかなく、悪人は死んでも糾弾する中国・韓国の人々にはそのままだと残念ながら理解して頂けないのである。それがいい、悪い、正しい、正しくないではなく、それが文化の違いである。

最も良くないことは、日本の近隣諸国へのこれまでの外交が、日本的価値基準である「過去のことは水に流してほしい」を前提に進められてきたことではないか。靖国問題だけを捉えれば、神道という日本独自の宗教感覚について、日本が近隣諸国に理解を働きかける努力を怠ったことが一番の問題のように思えるのである。

靖国問題が一部メディアによる過剰報道によって外交問題に発展したのは疑いようのない事実だが、報道の自由を保障している以上、政府としてはそういった一部マスコミの行動も軽んじることなく対処してこなければならなかったはずである。

欧州では一部マスコミが靖国神社をYasukuni War Shrineと呼ぶ。残念ながら今回の参拝について肯定的な内容の記事はほぼ皆無である。小泉首相は日本の政界では(安定議席数のため)敵なしかも知れないが、世界の大多数の国々から「やはり日本というのはよくわからない国だ」と思われてしまうことが及ぼす多くの目に見えぬ損失は覚悟する必要があるだろう。食料自給率が4割程度の貧弱な日本は、外交が国家存続の要になっていると言っても過言ではないからである。「神道は日本の文化なのだから世界の理解など得なくても構わない!」と片付けてしまうと、理解してもらう努力を最初から怠っているわけであるから、誤解が誤解を生んでしまい、ますます世界から孤立化していくだろう。もしそうなったら、いささか大げさだが先の大戦が始まった時の構図と少なからず似てこないだろうか。

靖国問題は本来問題にすらなりえず、様々な誤解の積み重ねで今に至っているというのが私見である。個人対個人でもそうであるが、誤解は一瞬で膨れ上がるが誤解を解くのは非常に困難である。結局は人間であり、「理屈で理解できても感情で理解できない」ことが障壁となるからだ。文化の違いは理屈で理解できても感情では理解できない最たるものであろう。しかしその誤解を一つ一つ取り除く努力は決して怠ってはならない。日本人がしてはいけないことは、反対する中国・韓国の人達に対する安易な感情的反論だ。中国・韓国の主張は明らかに感情的であるから、日本人が感情的になってしまってはこの先何十年経っても解決できない問題となって残ってしまう。今ある問題を次の世代にそのまま放り投げるような乱暴なことだけは、我々「今を生きている日本人」が決してしてはならないことだ。靖国問題の真の犠牲者を我ら自身の子孫にしてはならない。

 


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GUNSの待ち時間に思ったこと [日本人論]

さて、ガンズが出てくるまで前方へ移動してずっと待っていると、みんな酔っ払っているのでやっぱり小競り合いが始まった。

すぐ隣で起きたので俺も少なからず巻き込まれてしまった。発端は酔った男がすぐ前にいたちょい太めの女性に失礼なことを言い、キレたその女性がこの男性の首を絞めたことで周りに広がった。

英国人はフーリガン等でご存知のように酒癖が悪い。自分の許容範囲を越えて飲みまくり、暴れて倒れたり吐いたりするのは日本人とよく似ていると思う。ただそうなるまで飲む量は圧倒的に英国人の方が多い。だから一部を除いてほとんどの英国人はそうならない。俺も日本人の中ではどちらかというと強い方だと自負しているが、同世代の英国人とでは酒の量(ビールワイン)で勝ったことは未だ一度もない。かつて住んでいたオランダでは、彼らは飲む量は多かったが、道端で倒れたり吐いたりしているのを見たことは俺は一度もない。自分を律する心が強いのだと正直感心した。この強い自制心があってこそ、個人主義は成り立つ。日本人は自制心が強くないのに個人主義に走っているから様々な面でおかしなことが生じているのだと思う。

自制心が強くないということは、自分の価値基準が己でなく周りにあるということだ。「私がこうしたい」の前に「周りがこうだから、みんなと同じじゃ面白くないから、みんなと同じじゃイヤだから」私はこうしたい、というように、自分の価値基準が周りを基準に設定されていることが多いと思う。故にこれまで我々の先輩達は周りに合わせるべく集団主義を生んできた。だが今では教育が周りに合わせない個人主義となってきている。しかしこれは個人主義ではない。単に「わがまま」なだけだ。個人主義は個人が自分を律することができて初めて成り立つ。自分を律することができずに個人主義を認めるというのでは社会が成り立つわけがない。

では日本人は欧米人のように自律できるようにしなければならないのか。究極的にはそうだろう。しかし時間がかかりそうだ。今は親も学校も、教えるべき人間が自律できてないのだから、自律を教えることなどできないのだ。それは今の家庭崩壊と学校崩壊が証明している。理不尽な要求を学校に押し付ける幼い親にも見て取れる。民族の価値観は奥深く、政府の小手先の政策だけで根本的な部分をそう簡単に変えることはできないのだろう。しかし仮に全てが上手くいって遠い将来、日本人が欧米人のように自律できたとき、そのときの日本人は果たして日本人といえるのだろうか。

ちなみに小競り合いは大事に至らず収束しました。

 

アクセルはなかなか出てこない。かかっている音楽にノッて、会場のどこかで上半身裸の女性が男に肩車されて踊っている。それがスクリーンに映し出されると会場の男どもが騒ぎ立てる。1人がこれをやると次々と脱ぐ女性が出てくるのだが、やはりアメリカ西海岸のノリと比べると地味だ。

かつて住んでいたオランダでロビー・ウィリアムスのLIVEに行った時、ロビーに挑発された観客の女の子がトップレスになることがあった。しかしオランダではビーチに行くとトップレスの女性はたくさんいるし、スポーツジムの大半はサウナやシャワーが男女共用で、女性は平気でタオルも纏わずトップ&ボトムレスで歩いている。(いや、ホントですから) これは聞いた話ではドイツもそうらしい。

英国のジムはそこまで開放されていないが(する必要もないが)、振り返ればミニスカートを生んだ国でもあるし、今回のワールドカップでも、すぐに上半身裸になってビール飲んで騒ぎまくるイングランドサポーターをドイツの新聞が皮肉を込めて報道していたし、概して露出には無頓着といえるだろう。

ガンズはアメリカのバンドだから、こうやって盛り上げるのは悪くないと思う。欧州はアメリカとは異なるが、それでも肌を露出するレベルには国によって独特の価値観があり、総じて日本よりユルい。しかし「欧米ではこれが普通だから」などといって、日本人女性が真似してやる必要はない。「欧米ではこれが普通だから」などと思う時点で自分の価値基準を他の基準を前提に考えているのだ。日本人女性が持つ、恥じらいという美徳は継承すべき伝統である。欧米化が進んでも、グローバル化が進んでも、日本人が日本人として失ってならぬもの、守るべきものはある。他国の文化を吸収、昇華して新たな日本文化として取り入れるという素晴らしい作業を我々の先人達は行ってきたし、それは今も続いており、これからも続くだろう。その一方で、次の世代に日本古来のよき伝統(形だけでなく精神面)を伝えることも我々「今生きている日本人」の役割なのだ。

 


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