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しまなみ海道 チャリ旅 vol.3 [瀬戸田・生口島] [Japan Trip]

いよいよ生口島・瀬戸田町へ到着。

 

こちら、生口橋の料金所。こちらも50円也。

 

ここは広島県最後の島だ。サイクリングロードは島の北側をぐるりと回るコース。

 

その途中に、日光東照宮の陽明門ような建物のある耕三寺がある。ここを建立した耕三和上は、母親への想いからこれを作ったという、日本では珍しい個人の発願によるお寺だそうだ。この陽明門を模したもの以外にも、日本代表建築を模した建物が数多くあるスケールの大きなお寺と聞いているので、ぜひ訪れてみたかったのだが、実際には時間の余裕が無くて行けずじまいだった。

島の西側を走っていると、やがて広島県と愛媛県とを結ぶ架け橋が見えてくる。

 

多々羅大橋(たたらおおはし)!

世界最大の斜長橋。先の生口橋よりも一際大きく、迫力が段違い。これはかなりデカい。思わず自転車を止め、見入ってため息が出てしまう。こんなものを作り上げる人間は凄いなぁ、としみじみ思うのだ。もともとは吊橋として建築される予定が、周りとの景観を考えて、斜長橋に変更になったそうだ。その判断は大正解。この美しさと雄大さは、向こうに見える大三島(おおみしま)の景観と見事に合っており、人工建造物と自然の融合した見事なパノラマは、見るもの全てを釘付けにするだけの力を持っている。 

 

自転車道はぐるっと橋の下を回ってから橋の上へ。

 

多々羅大橋走破!

 

多々羅大橋から望む瀬戸の海。あまりにも穏やかで美しいこの海は、世界の美しい遺跡に決して劣らぬ誇るべきものだ。

 


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しまなみ海道 チャリ旅 vol.2 [因島] [Japan Trip]

向島(むかいしま)から因島(いんのしま)を目指し、因島大橋の自転車専用道を渡りきると終点には、

かわいらしいセルフサービスの料金所があります。自転車は50円。きちんと払って因島へ上陸!

 

因島はポルノグラフィティの出身地であることで有名だ。町には「祝!ポルノグラフィティ紅白出場」の垂れ幕を見かけた。いまや紅白の常連となっているポルノグラフィティなので、いつの垂れ幕なのやら。

ところでこの因島には村上水軍のお城があると聞き、サイクリングコースを離れて城を目指す。

 

発見!因島水軍城!

 

聳える村上水軍の城。上ってみたくて仕方がなかったが、坂道が急すぎて途中で断念。日没までに今治に着かなければいけないことを考え、泣く泣く城を後にした。

因島を横断すると見えてきました、

生口橋(いくちばし)!

横浜の鶴見つばさ橋に代表される斜長橋。この生口橋を作った時のノウハウが、現在の斜長橋世界最長である多々羅大橋(この次に登場する、愛媛県と広島県を結ぶ大橋)に生かされたそうだ。

 

生口橋は車道の横を走る。向こう側の柱が手前の柱の中にすっぽりと入って見える。目指すは3つ目の島、生口島(瀬戸田)だ。太陽が燦々と照り、最高にリラックスして走りぬけた!

 


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しまなみ海道 チャリ旅 vol.1 [尾道~向島] [Japan Trip]

しまなみ海道!

美しき瀬戸の海は、島伝いになんと自転車で渡ることができるのだ。

金曜に仕事を終えてから、東京から広島県福山駅まで新幹線、その後在来線で尾道(おのみち)駅まで自転車を運んだ。日本は残念ながら自転車をそのままでは運べないので、輪行(りんこう)バッグという自転車用のキャリングケースに入れる必要があります。もちろん車輪の外し方も復習しておかなければなりませんでした。

尾道に着いたのは夜7時半。せっかく来たから本場の尾道ラーメンを食べよう!と店を探したが、、、ない!尾道の駅前にはほとんど店が無く、金曜の夜だというのにひっそりとしていたのだ。

駅前で飲んでいた地元の親切な人が、「この時間でも唯一開いている可能性があるラーメン店」まで案内してくれた。駅からひたすら東へ20分くらい歩くと、スナックやら立ち寄り居酒屋など、渋い店がひしめく界隈に到着した。

歩いている途中で紹介された老舗のラーメン店。金曜の夜8時なのだが残念ながら閉まっている。。。

 

やっとたどり着いた尾道ラーメン!魚をダシに効かせたあっさり味。まさしく瀬戸の味の風味だ。

この日はそのまま大人しく就寝。翌日一日で橋を渡りきらなければならないからだ。

 

しまなみ海道はその名の通り、本州と四国の間で6つの島をつなぎ、それぞれ個性的な橋で結ばれている。まず最初は尾道から向島(むかいしま)にフェリーで向かう。

 

輪行バッグを持つとなんかサーファーっぽい?(笑)

 

尾道の駅前すぐが港になっており、向島へは数分おきに連絡船が出ている。実は向島と尾道を結んでいる新尾道大橋・尾道大橋はクルマ専用で、自転車は通行できないのだそうだ。本州と四国間を自転車で走破するつもりだったが、最初からいきなり船のごやっかいにならなければならない(笑)。写真中央の白い建物は、今回泊まったグリーンヒルホテル尾道。一見この界隈にまともそうなホテルはここ以外にないようだった。

 

さぁ、フェリーから降りて自転車を組み上げ、四国へ向けていよいよ走りはじめる!

 

天気がよく、気持ちいいので一気に向島を走り抜けると、すぐ因島大橋(いんのしまおおはし)が見えてきた。

 

因島大橋!

よく見ると二階建て構造になているのがわかる。はて、あれはなんだろう?と近づいてみると、

 

なんとクルマ専用道路の階下部分が、歩行者と自転車専用のレーンになっている。直線で因島まで一気に渡りきることができるのだ。 

 


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愛媛ちょい旅行 vol.3 [グルメ③焼き豚卵飯] [Japan Trip]

愛媛県今治市の名物第2弾。それは、

焼豚卵飯!

「やきぶたたまごめし」と読む。そのままなのだが、なんとこれは商標登録されているれっきとした名物なのだ。街の中華料理店ではまず例外なくメニューにある。しかしオリジナル志向である私はこの商標を持つ店に行きたい、という衝動を抑えきれなかった。

これぞ焼豚卵飯!

メシ+焼き豚+卵2個+醤油ベースの甘いタレ

こういうシンプルなものだが、これがなんと信じられないくらい旨いのである。見た目はぶさいくなので食欲をそそらないかもしれないが、一度経験すると病みつきになりそうなクセのある味だ。聞けば今治人は、「注文してすぐ出てくる」料理や、「懐石料理のような飾りつけのない」料理が好きとのこと。味にはウルサイが見た目にはコダワラナイ、というわけだ。


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愛媛ちょい旅行 vol.2 [グルメ②焼き鳥] [Japan Trip]

広島県の尾道(おのみち)から「しまなみ海道」を渡ったその終着地は、愛媛県の今治(いまばり)。なんと焼き鳥日本一の街(人口1万人当たりの焼き鳥屋の数)という。ではそこで一番ポピュラーなメニューはというと?

 

それはこの「皮焼き」だ!

甘くて濃い~タレと一緒に食べる、鉄板焼きでサッと焼いた皮。注文するとすぐ出てくる。これが最高にイケる。ビールが進む進む。だいたいどの店でも付け合せにキャベツが出てくる。次の焼き鳥が出てくるまでに、このキャベツを焼き鳥のたれにつけて頬張るのだ。

そしてもう一つ有名なのが「せんざんき」。今治では鳥の唐揚げのことを「せんざんき」という。(写真は割愛) この語源は諸説あるそうで、はっきりしていない。たぶん鳥の唐揚げをそう呼ぶのは、この街だけじゃないだろうか。俺はこの「せんざんき」という独特の響きが大好きだ。


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愛媛ちょい旅行 vol.1 [グルメ①ふぐ] [Japan Trip]

 帰国したら食べたいものは何ですか、とよく聞かれた。俺はラーメンとよく答えた。それは間違いではないのだが、一番食べたいと思っていたのは実は、ふぐである。

 日本のラーメンと同じくらいおいしいラーメン屋は、まず海外にはないだろう。しかし日本のすしと同じくらいおいしいすし屋は存在する。(もちろん一部店舗の味を除く) しかし、俺が親しんできたふぐとは日本のそれもある地域でしか食べれない。それは、「肝入り」ふぐ刺だ。

 広島から「しまなみ海道」を渡り、四国にたどり着く。そこには頼めばその「肝入り」ふぐ刺を食べさせてくれる店があった。

ふぐ刺しにのっている塊、これこそふぐの肝である。条例によって日本のほとんどの地域では出してはいけないことになっている。ふぐを食べまくっているという贅沢な人も、肝と一緒に食べたことのない人は多いかもしれない。

 

肝とともに頂くふぐ刺!

これこそこの世のものとは思えぬ絶品の味。肝はふぐの毒が集中する場所とも言われるので、本当に腕のいい板前さんでないと堂々と出すことはできない。そういった曰くつきのものなので、まさにこの世のものとは思えぬ旨さなのだ。

 

ヒレ酒!

1回注ぎ酒をしたら、次は新しいヒレ酒を頼む。ふぐ刺しにはヒレ酒があう。最高に気分よくなれる。


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広島ちょい旅行 vol.9 [広島平和記念資料館] [Japan Trip]

今回のテーマは重いっす。。。

 

丹下健三による平和記念資料館

日本人ならば1度はここを訪れなければ、という思いでやってきた。ここの展示内容は凄まじい。原爆の悲惨さを遺品、模型などを展示してとても分かりやすくまとまっている。ただ、細かくは触れないが俺の知る限りにおいて、戦争の悲惨さを訴えるあまり、事実と異なるもしくはまだ歴史学的な証拠が確定されてない記述が見られたのもまた事実だ。

 

アメリカが撒いたビラ。これには「軍が無条件降伏を拒んで戦争を続ける限り、我々は攻撃を拡大するのでみんなの辛く苦しい生活は続く。無条件降伏とは戦地に赴いた家族を呼び戻すことでもあり、今の苦しい生活から開放されることでもあり、断じて日本国民の抹殺や奴隷化を意味するものではない。」といったようなことが書かれてある。日本国民の戦意喪失を狙ったものとされるが、この頃すでに「日本軍=悪、米軍=解放軍」という戦術を持っていることが伺える。しかし、このときすでに戦争は末期状態。ここに書かれてあることは100%ではないにしろ、どちらかというと事実に近いだろう。

 

アルバート・アインシュタインが、フランクリン・ルーズベルトに宛てた手紙が展示されてあった。この手紙は署名させられただけ、と言う説もあるが事実のほどはわからない。ただ、この手紙にははっきりと新しいエネルギーの爆弾への使用可能性が記されている。(原文) 「この新しい現象は、ものすごい破壊力を持つ兵器を産む可能性がある。船で運んで港で爆発したら、その周辺を含めて港全体を破壊しつくすだろう。しかしながら飛行機で運ぶには重過ぎるであろう。」と明確に書かれてある。

 

ヤルタ会談の様相。これにより、日ソ中立条約を結んでいるにも関わらず、ソ連の対日参戦が決まった。それなのに日本はソ連に仲裁を求めていくのだ。日本は昔も今も、情報戦に負け続けている。

 

原爆投下の決定を知らせる手紙が展示されていた。「日本に対して、労働者や家に囲まれた軍都に、事前の警告なしで、できるだけ早く使用する」ことが明確に書かれてある。当時の軍関与者や原爆に関わった開発者のほとんどが、すでに虫の息も同然の日本に対して、しかも民間人に対して事前の警告なしでこの恐ろしい兵器を使うことを反対していた。しかし投下は決行された。場内ではどうやってヒロシマがその運命の地に選ばれたかが分かりやすく解説されてある。

 

投下前のヒロシマの街並みの模型。緑色の屋根の洋館が原爆ドームだ。

 

写真上:原爆投下前、写真下:原爆投下後

全てが、何もかもが、燃え尽き無くなっている様子が描かれている。原爆ドームは、その外観を残すことの出来た稀な建物だったことがわかる。左上のT字の橋が、本来の爆撃予定地の相生橋だ。

 

爆心地(島外科)の上空570mで爆発。この赤球は爆発して1秒後の大きさを示しているそうだ。

 

実際に投下に使われた原爆、リトルボーイの模型が飾られてあった。この悪魔の開発・製造には約20億ドルといった巨費が投じられている。

 

この銀行の石段に黒い影が今も残っている。言うまでも無く、被爆した時の人型だ。時刻は8:15。銀行が開くのを待っていた人は突然の光と熱に体を焼かれ、その跡が石段に焼きついた。この日は普通の朝だった。事前の通告なしで行われた、とても人間とは思えぬこの残虐な悪行は、未だ裁かれていないのだ。

 

熱で溶けた壁も飾られてある。最近のCGたっぷりの映画を見すぎていると感覚が麻痺しそうだが、現実のものとしてのその威力の凄さは鳥肌ものだ。

 

有名な「黒い雨」。原爆が炸裂した時の泥やすすが含まれた雨だ。重く粘々しているため、このように何年も残るのだろう。

 核爆弾が炸裂すると、空は黒く覆われて光が遮断され、この黒い雨が降り、大地は温度が下がって「核の冬」が訪れる。ハリウッド映画・マトリックスで描かれた「リアル・ワールド」は、核が引き起こした黒い雲に覆われた地球が描かれている。

 

その秋、75年間は草木も生えないと言われたヒロシマで、新しい芽が息吹いた。この植物の生命力は、人に生きる希望と勇気を与えたという。

 昔NHKでやっていた「未来少年コナン」という宮崎駿のアニメは、核戦争後の世界が舞台だ。宇宙へ脱出出来なかった人間達のロケットが、何もない島、通称「残され島」に不時着し、絶望にかられていた時、その島から植物が芽生えるのを見つけて勇気付けられる場面がある。このシーンはまだ主人公のコナンが生まれる前の話だ。この写真はそれを思い出させた。

それにしても、、、

これが人間のやることなのか!

展示を見ながら俺は体が強張っていた。

俺の持論は「自国防衛」を基本とし、「そのためには核保有も辞さぬ」であった。しかし、「この資料館を見てもまだ、日本は核を持った方がいいと本当に思うのか」、と自分に何度も問いかけた。

 軍隊を放棄し、平和平和の連呼では、残念ながら国際社会では「全く」通用しないことは、日本は湾岸戦争で受けた屈辱でもう十分すぎるほど学んだはずだ。自国防衛は世界の「普通の」国の条件でもある。国とは民族形成の根幹だ。武力を外交に用いる国がある限り、日本を、日本人を守るためには悲しいかな、軍隊は持たねばならない。それが現実だ。しかし、しかし世界で唯一の被爆国、日本が核武装するということは、日本国民が、何十万人もの先祖を殺したと知っている同じ類の武器を、(税金すなわち)日本国民みんなで金を出し合って作るということだ。これは「人間とは如何に愚かな動物か」ということを日本人自ら証明しているようなものではないか? 日本人は被爆国民として「普通」ではない国としてのアプローチが必要なのではないのか。展示の中にあった言葉が胸を打つ。「核兵器が蓄積され、拡散が心配されている今日、人類の英知は果たして核時代を制御できるのでしょうか。」

 残念なことに核不拡散条約に調印していない国はどんどん核武装を進めている。その大多数は自衛のためといえるだろう。ヒロシマは世界で核実験が行われる度に、ムダに終わるとわかっていても抗議文を送り続けている。平和の連呼だけで世界が動かぬことはこの60年でもうわかった。ならばどのような投げかけをしていくべきなのだろうか。俺は結論を出せなかった。しかし被爆国日本ができることをもう一度考えたい。

 

 

平和の門

 原爆資料館を出て平和公園を抜け、平和大通りを渡ったところにある10戸の門。2005年、フランス人建築家らが被爆60周年を記念して作り、寄付したそうだ。ダンテの神曲の九つの地獄にちなみ、原爆を第十番目の地獄として平和な未来への希望を現している。

 この柱には世界49カ国の言葉で「平和」と刻まれている。

 俺は「平和」の持つ意味を、現代に生きる日本人として更にもっと真剣に考えようと思った。独立と平和は戦って勝ち取るものであることは人類の歴史をみれば明白だ。この戦争の背景を考える時、これは日本の独立を守る戦争だったという要素もあるだろう。そしてその戦争に我々は精一杯(本当に全力で)戦って負けた。「戦争に負ける」ということは永遠に独立を失うことなのだろうか。今の日本は平和をも金で買っているようなものではないか。

 まだ広島を訪れていない方は、ぜひ訪れて頂きたいと思います。ただ、原爆資料館は当時の日本についてはちょっと悪く書きすぎている嫌いがあるのも事実で、今も歴史学者や知識人の間で議論が進んでいるような、まだ結論の出ていないようなsensitiveな話題もあることはアタマに入れておきたいところです。戦争そのものは終わっても、情報戦ともいうべき別の戦いを生んでいるのも事実です。この資料館での当時の日本に関する記述には、事実と完全に断定できないこともある。何が正しく何が正しくないかは自分で調べるしかないし、どの情報を信じるかは「自己責任」です。このblogは私個人のものなので、様々な文献から私個人の意見を醸造しています。「ヒロシマは原爆で20万人を越える人々が亡くなった」 この言葉を色々な側面から脳へ直接語りかけるこの資料館、楽しい、おいしいという旅行の合間でもいいから、ぜひ訪れて頂ければと思います。入場料はこの濃い展示物の量にも関わらず、わずか50円(!)なのです。


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広島ちょい旅行 vol.8 [平和記念公園] [Japan Trip]

これまでグルメの話を中心にしてきた広島旅紀行だが、広島といえば訪れねばならぬ場所がある。いよいよ今回の旅のメイン、平和記念公園に到着した。 まず世界遺産に登録された、原爆ドームへ足を運ぶ。

 

原爆ドーム

写真上は1915年にチェコの建築家によって建てられたときのもので、写真下は今現存するもの。当時の名称は「広島県産業奨励館」と呼ばれていたそうだ。

 

これは被災直後の広島産業奨励館。俺はヨーロッパ滞在時に数百年前から残る数多くの遺跡巡りをしたが、原爆ドームはわずか60年前のことにも関わらず、それらの遺跡と同じような色をしていた。核分裂時に伴う強力なエネルギーは、あらゆるものを老いさせ、死なせてしまった。この建物も、世界に点在する遺跡と同じく、死に絶えた廃墟も同然だ。しかし原爆ドームが他の遺跡と決定的に違うのは、わずか60年前、それも人の「指」で廃墟となったということだ。

 

平和記念公園のすぐ近くにある、爆心地

この島外科の上空600mで原爆は爆発した。元々の標的だった相生橋から数百メートル離れた場所にある。

 

原爆の子の像

原爆で亡くなった全ての子供達のために作られた慰霊碑。2歳で被爆したが健康に暮らしていた佐々木禎子さんは、12歳で突然白血病を発病して亡くなった。この記念碑は彼女の同級生達の意思により作られたそうだが、原爆の後遺症は今も至るところで残っている。

 

この像に込められた強い想いが込められている。これを読んで胸が熱くならない人はいないだろう。

 

平和の鐘

「原爆の子の像」の近くにある鐘。鐘楼の丸い部分は宇宙をあらわしているという。

この鐘には「世界は一つ」を現す「国境のない世界地図」が描かれている。我々人間はそれぞれの民族性が持つ風習の中で生きている。ある民族が寛容できる風習も、ある民族にとっては許しがたいことということもある。普遍の宗教などなく、普遍の風習というものもない。民族性や宗教性は国家に支えられ、いかなる人間もそのどれかの国家に属する。国を越える概念はいまだ無く、国連にしても加盟国の集合体というのが実態で、国を超越する存在ではない。この現代の国際社会システムは間違いなくまだまだ続く。国境のない世界など存在しえない。国境のない世界が訪れたら、間違いなく犯罪者が急増して日本には別の地獄が待っているだろう。これが現実なのは確かだ。しかし、それでもヒロシマがこの鐘に込めた「国境のない世界」への想いは痛いほどに理解できる。そしてそれが現実を知らぬ理想論だと揶揄されても、広島はそれを叫び続ける資格と責任がある。

 複雑な思いを胸にしながら、鐘を鳴らした。

 

韓国人原爆犠牲者慰霊碑

国境の無い世界地図が描かれている「平和の鐘」のすぐ近くにある、韓国の慰霊碑。平和記念公園の慰霊碑は、そこで亡くなった「日本人」を慰霊しているわけではなく、国籍など関係なくそこで亡くなった人全員を慰霊している。この世界平和を掲げる平和公園内の慰霊碑で"唯一"、「国」を表現し、しかも恨みともとれる碑文を記した施設があることには正直驚いた。(日韓併合には様々な議論がるのでここでは控える) しかし犠牲者は2万余名という膨大な数だそうで、これは被害者総数20万人の1割にも上ることを考えると、この慰霊碑を建てた韓国人の方々の気持ちはよくわかる。多くの犠牲者を礎とし、今のこの平和な世界が成り立っていることへ感謝するにあたり、ヒロシマの平和への叫びは国籍を問うものではないから、私もこの慰霊碑の前で手を合わさせてもらった。

 

原爆死没者慰霊碑

ここで原爆により亡くなった全ての人へ、静かに手を合わせた。

原爆投下は人類の倫理観からして「過ち」である。この碑文の名にかけて、ヒロシマは核兵器の廃絶に向けて叫び続ける資格と責任がある。たとえそれが理想論だと揶揄されても、ヒロシマからその声が止まる時、世界は大きく破滅へと傾くだろう。ヒロシマからの声は決して絶やしてはならない。

 数年前、この碑文の「過ち」という表現が気に入らず、この石碑に何か(何をしたのかは覚えてない)した人がいて逮捕された事件があった。しかし我々は思考を停止せずに考え続けねばならない。多くの犠牲者を出したことの本当の「過ち」とは何か。以前の「日本人論」でも書いたが、この戦争はたった一つのきっかけというものはなく、すなわち日本が悪いとかアメリカが悪いといった単純な話ではなく、様々な要素が複雑に絡み合って結果的に戦争へと繋がっている。そしていつも俺が思うのは、当時戦争を始めたことの抜本的な状況は、実は今も変わっていないということだ。 

 我々は平和をもてあそんでいるといってもいいだろうが、それこそ「過ち」を犯し続けているということにはならないのだろうか。

 溢れる涙を必死で止めながら、原爆資料館へと赴く。


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広島ちょい旅行 vol.7 [広島城] [Japan Trip]

広島城!

 毛利輝元が大坂城に魅せられ、1589年に築城した平城。城内の解説には、1600年の関が原の戦い以降は福島氏が、1619年以降1869年までの250年間は浅野氏が広島城主を務めた、とある。つまりこの広島城は戦闘経験のない、ヒロシマの名に相応しい平和を象徴するような城だ。

 しかしそんな広島城も、その立地の良さから軍都として栄えていく。明治時代には、日清戦争の指揮をとるため、この広島城内になんと大本営が置かれ、明治天皇が滞在されたという。

今も残る、広島城内の大本営跡!

この大本営跡は、原爆で跡形もなく吹き飛んだ。どのような建物だったのかちょっと見てみたい。

 

広島城天守閣!

原爆で跡形もなくなってしまい、現在の天守閣は1958年の復元だそうだ。高さ26.6m(石垣含めると39m)の5層の雄大な天守閣の最上階からは、広島の街を一望できる。外観はいかにも木造建築だが、実は鉄筋コンクリート造り。中は広島城の歴史はもちろん、城下町の人々の暮らしなどが、模型を使って展示されている。俺が行った時は、侍の日常生活を紹介する企画展示が行われていた。

 

広島城下町の様子!

 広島城の天守閣は当時の大坂城とほぼ同等だったといわれる。内堀、中掘、外堀の三重の堀に囲まれている。(この写真上は外堀が写ってない) 外堀は原爆の標的となった相生橋から伸びる現在の相生通りだそうだ。現在は内堀のみが残っている。

 

天守閣最上階から内堀を挟んで望む広島の街並み。右側にあるドーム状の建物は、広島カープの本拠地、広島市民球場だ。

 

二の丸のある太鼓櫓! (たいこやぐら)

1994年に復元。二の丸は出撃の拠点かつ本丸を守る役割があった。実際には戦はなかったらしいから、参勤交代のときにはここで整列して江戸へ向かったのだろうか。

 

原爆で全ての施設が吹き飛ばされた感のある広島城。しかし二の丸の片隅で、被爆に耐え、今も青々とした葉を茂らせる大木があった。ほとんどの植物が死に絶えたあの爆弾を浴びたにも関わらず、この木はひっそりと行き続けてきたのだ。俺はこの木と同じ地球上の生物として、この木の生命力に驚嘆するとともに、自分と同じ人間と言う種がこの木に甚大な被害を与えたことを思い、気がつけばこの木に手を合わせていた。その時、俺は無意識に「同じ過ちは繰り返しません」と心の中で語りかけていた。

(広島城を訪れたのは、実は後述する平和記念公園と資料館の直後)

 

表御門! (おもてごもん)

同じく1994年に復元。当時のメインゲートで、ここから多くの武士が出入りしていた。

 広島という地名の由来は多く、どれが真実かはわかっていないそうだ。広島の歴史に詳しい友人から聞くと、毛利氏がどこに城を建てるかを話し合い、一番広い三角州に建てることとなり、三角州はあたかも島のようであるから、「広い島」-->「広島」になったという説があるそうだ。これが事実だとすると、本当の意味で広島城こそ広島の象徴だ。


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広島ちょい旅行 vol.6 [グルメ④広島牛] [Japan Trip]

広島牛!

日本三大和牛には名を連ねないが、実は広島牛は広島の隠れた名産だそうだ。

そこで今回も無理やり呼び出した広島の友人に、広島牛が食べれるレストランに案内してもらった。やってきたのは繁華街にある「さこん」!

 

まずは鮮魚の鉄板焼き!

手前にある赤いのがオリジナルのソース。野菜で作ったソースだそうで、付け合せの野菜の感覚でつけれるソースだ。見た目は辛そうだが、実はほとんど辛味はなく、素材を引き立てる工夫がされている。本当においしいです。

 

広島牛ヒレステーキ!

焼き方はミディアムレア。軟らかくて口の中でとろけていきます。 

 

 

ご飯、大根おろしダレ、味噌汁、ガーリックチップスが付きます。

 日本では7世紀後半にはすでに天武天皇によって肉食が禁じられており、日本人が一般的に牛肉を食すようになったのは、明治時代からなので実はわずか140年しかない。俺はこのステーキとご飯という組み合わせが大好きだ。というのもこれだけ日本食が海外に普及し、旨い寿司が日本以外でも食べれるようになってきた今の時代でも、旨い牛肉と旨い米が一緒に楽しめるのは、実はまだ日本国内だけだと思うからだ。(俺が知らないだけかもしれませんが) ステーキを世界に広めた国とされる英国においては、ステーキと一緒に食べるのはだいたい芋だし、パンは前菜みたいにちょっと食べるのが一般的。フランスを始めとした他の欧州諸国もだいたい似た食べ方だ。

 「和牛ステーキとご飯」を「和風のタレ」で「お箸」で食べる時、すなわち西洋の料理を、「日本の材料」で「日本の味付け」で「日本の食べ方」で食べる時、西洋文化を上手に吸収して日本の文化と融合させ、最終的にオリジナルを凌駕してしまうという、日本人という性質が見事に活きた料理だなぁ、とつくづく感心してしまうのだ。

 

店の入口にある、「広島牛の証」の立て札。ほんとにおいしくいただきました。


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